惰性で生きてる。〜昔話を添えて〜
雨月思った(唐突)
今生きてるの惰性だ。
一昨日生きてたように昨日生きて、昨日生きてたように今日生きて。で、明日も今日生きてたように明日を生きる。
なんか怖い。生きてることが宗教じみてる…
はい、昨日は怠くてブログ書けませんでした。
ごめんなさい🙇🏻
雨月ね〜やりたいことがあるの!
歌を作りたい!雨月ボカロPになりたい!
名前は雨月/お薬もぐもぐP
んー...やべえやつ!ww
まぁ、今まで頑張って生きてきたのを曲にできたらと思って…高校に入ったらどーせバイトするし、それで色々買おうと思いました!!
頑張ります!!
入院したい(唐突Part2)
入院してた頃に戻りたい(現実逃避したすぎる屑人間の末路)
でも活性炭飲みたくないから同じ理由では入院したくないのね、
で、導き出した結果が…
ストレスを溜めて溜めて溜めまくって胃潰瘍になる!
馬鹿でしょ?
まぁ、雨月が馬鹿なことなんてとうに周知の事実なんでw
胃潰瘍なりたくない…諦めよう!!
そして、今日ブロン30tODしましたが効きませんでした!
耐性ついた!!
地獄かな?
耐性ついたなんて言わないでおくれよ(;ω;)
まぁ、タイトルにも書いた通り、今日は長々と、昔話をしようかな。
⚠️attention⚠️
小学校一年生から始めるからだいぶ長い…てかアホみたいに長いwので、ここから先はすっげえ暇!そして病みたい!って人しか見ないでください!
そして国語力と語彙力が足りてません!誤字もすごいと思います!ごめんなさい🙇♀️
何よりくらい話でしかないのでw
それでもいい方のみご覧下さい!
ピッカピカの1年生
1年生。学校という以下にもお兄さんお姉さんらしい響きに、雨月は胸を高鳴らせていた。
「これから、友達がいっぱいできて、勉強もいっぱいして、楽しく過ごせるんだ!」
僕はこう思っていた。
最初の1ヶ月は、勉強も簡単めだし、友達も出来たしですごく楽しかった。
が、学校も慣れて新鮮味のなくなった頃。
僕は初めて、「悪口」というものを知った。
周りが皆、他人の「悪口」、「陰口」を言っているのを、よく耳にした。
僕の仲の良かった子も、あまり好きではなかった子の「陰口」を言い始めた。
僕は、人が悲しむようなことを言うのが本当に嫌いだった。今思えば正義感のすごく強い子供だった。
いつも通り学校で休み時間、友達と遊んでいる時に友達(以下A)は言った。
A「最近Bちゃん(私と仲良い)うざくない?なんか臭いし。雨月もそう思うよね?」
その時に、僕は嘘でも便乗するべきだったのだろう。僕はこういってしまったのだった。
雨「そんなことないよ!雨月Bちゃんの悪口言うのはありえないよ!Aちゃん最低」
悪気は無い、ただ、AがBの悪口を言うのが許せなかった。きっと傷つけてしまった。
それは今になればわかる。最低と言われたら人は誰しも少しは傷つくものだろう。そこは申し訳ないと、今でも思っている。
A「は?雨月ちゃん意味わからない。雨月ちゃんみたいな子なんて言うか知ってる?KYって言うんだよ!」
雨月「KYってなに?」
A「空気読めない、お姉ちゃんが言ってた!
明日から雨月ちゃんの悪口言いふらすから!」
そう言われたのだ。
僕はなんのことかさっぱり分からなかった。
翌日、今思えば軽いがちょっとしたいじめが始まった。
陰口のみの軽いものだったが 、当時陰口など言われたことのなかった僕は、当然すごく傷つくことを言われた。
言われたことはこうだ
「雨月ちゃん勉強できないよね」「馬鹿」
「頭悪い」「ブス」「臭い」「カサカサ」←アトピー性皮膚炎でとても肌がカサカサしておりました。雨月はそのことをとても気にしてました。
すごく傷ついた。なぜなら言われ慣れてなく、耐性などがなかったから。
物凄く辛かった。
この頃の家庭内環境はこの様になっております
父→怒鳴りつける事をやってた。その他無関心
母→弟がまだ甘えたの小さい子だった為弟贔屓で、雨月に暴言を吐いてくる、殴る等の暴力ふるってくる。
て感じでしたね、それでも両親が好きでした。
2年生
Aとはクラスが離れ、すごく安心した。
が、男子からめっちゃ悪口言われた(男子は面と向かってが多かった。)
そんな感じで、2年生は特に問題なく、過ごした
3年生
一軍の女子と仲良くなった、大親友ってくらい仲良かった。
この年はその子に守られ、皆勤賞をとるくらい楽しかった。
4年生
この年が生きてきた中で1番地獄だった。
3年生で、雨月の1番仲良かった子に、くるっと手のひら返しされ、ほかの一軍の子達に、ありもしないこと(ビッチだの、一軍の子達の悪口を言っただの言ったらしいです。)を言われ虐められる。という最悪の裏切りをされる。
主にこうだ、特に何も関わりのない子達からは無視…と言うか一番最初は全員に無視され、透明人間化、
次に、女子からやられたことは
・悪口、陰口、直接的な暴言
・ありもしないことを言いふらされる
・ひどいあだ名(カサカサババア他)
・軽い暴力
・給食にホコリを入れられる
・上履きの中に画鋲
・少し障害を持ってる男子とのキスを強要
・便器の中に顔突っ込まれる
覚えてるだけだとこれだけある
これが日常
男子からやられたこと
・悪口、直接的な暴言
・ものを隠される
・胸を触られるなど、性的な暴力。
で、月に何回か、ガン無視されるということがあり、感覚が麻痺して暴力を受けてる時の方が、存在価値がある気がして、楽だった。
教師に相談したいことがあると、相談するも聞く耳を持ってくれず、挙句の果てにセックスを強要してくるようになり、やられずにはすんだが、大人を信用できなくなった。
そして、男性恐怖症擬きになった。
両親は、その時が1番仕事が大変で、父には言えず、母は忙しそうだったし心配をかけたくなかった。この頃、母の暴言暴力がエスカレートした為怖くて言い出せずにいたのもある。
小学校4年生は地獄の歳だった。
5年生
守ってくれる、なかなか強い地位高めだが、どのカーストにも属さない女の子(以下猫)と仲良くなり、いじめがピタリとやんだ。ここはもう何も無く済んだ。ありがとう。
6年生
この年も何事も無かった…と言いたいが実は夏休みと受験シーズンに事件があった。
夏休み
ピンポーンと言うどこか警告の音にも似た呼び出し音により、昼寝の浅い眠りから覚め、誰が来たのか確認もせず勢いよくドアを開けた。
僕は後悔した、なぜあの時誰が来たのか確認しなかったのか。
寝惚け眼でよく見てみるとそこには虐めっ子数名が…
まずいと思った頃にはもう遅く、勢いよく腕を引っ張られ転んだと同時に腰をドアに挟み、現在腰痛持ちになった原因となった。
それからは、見えない場所を殴られ、思い出すだけで死にたくなるような、人間性、存在をも否定するかのような酷い罵詈雑言を浴びせられたのだった。
彼らもいじめの対象がいなくなりストレスが溜まっていたのだろう。だが到底許されることではない。
受験シーズン
我らが強い味方猫は受験生だった。
「雨月が虐められないように、受験の日以外はなんとしてでも学校に行くよ」
彼女はそう言ってくれたのだった。
彼女の親は毒親で、猫が少しでも勉強を疎かにしよう物ならガラスのコップを投げつけるような人間だった。
受験シーズンは2月、インフルエンザになったりしたら大変なのに、親の反対を押し切ってまで僕を守る為に有言実行で学校にきてくれたのだった。
だがしかし、受験の日は休まなければいけない。
その、受験の日にも、夏休みと同じように暴力、人の尊厳を傷つけるようなことをたくさん言われた。
卒業式
猫やその他の友人との別れを惜しみ泣いていたその後ろを通った誰かに、「え?これ五月雨(僕の苗字)?泣いてんの?キモw」
と言われ、傷ついたことは今も覚えてる
(猫とはそれからもものすごく仲が良く、一緒にカラオケに行ったりしてます)
中学校
※中学校は引っ越して、誰も私のこと知らないです
1年生
誰も何も知らないところで新しく生活を送れることに安心する反面、また同じようなことが起きるのではないかと不安になっていた。
最初の頃は少しだが友達もできて、陰口とかも周りに合わせていた。最初の頃はものすごく心が痛かったが、慣れとは恐ろしい物で、数ヶ月するとそれは当たり前となった。
そして、ここでもいじめは起きた。僕は悪口を言われ、暴力こそなかったがたまに雑巾を投げられたり、弁当を捨てられたり…母のご飯が1番好きだった雨月はすごく傷ついたしどうしても許せなかった。時に反抗することもあったが、事態は悪化するだけだった。
教師からは性暴力、暴言をされた。
やがて過去のことと重なり学校に行くと嘔吐するようになった。僕はその頃から当時見てた漫画、ライフの影響でリストカットをする様になった。
そして学校へ行く途中、如何しても行きたくなくなり、僕は学校へ行かず商店街へ行き、持っていたお小遣いでカフェへ入った。(お金持って行くのは校則違反だよ)
さすがに長時間制服のままいるのはダメだと思い、外へ行き歩いていたら私を探していた母に出会った(先生から学校へ来てないことを告げられた模様…先生と母は、私を探し回っていたらしい…ごめんなさい🙇♀️)
怒られたが、泣き始める僕を見てただ事ではないと思った母一旦学校へ、無事見つかったが休ませると電話🤙
家に帰り、僕は座り、母もコーヒーを入れ座り、暫く沈黙が続いた…
先に口を開いたのは母だった。
母「如何して学校へ行かなかったの?」
雨「行きたくなかったから」
そこから再び沈黙…
そして、僕は昔あったことをポツリポツリと話し始めた。
話終わると母は泣いていた…僕も泣いていた。母からはすごく謝られた。
その日母と一緒にお風呂に入った。そこでリスカがバレた。
母はもう学校には行かなくてもいいと言われた。
それからと言うもの、両親はとてもいい親になった。
自傷癖は治らなかった。
不登校になった。
今もだが、当時は特に自己嫌悪に悩まされた。
そして軽い拒食症になった(152cmで最低体重29キロ)
メンクリに行きADHD発覚、医師が薬の話しかしない&人の話を聞かない人だった。
2年生
相変わらず自傷癖治らず。
そんな時、初めてネットだが彼女が出来た。(ここで拒食治る)
やがてリアルで会うようになり、都合の良いように扱われて捨てられると言う…軽い地獄を見たw
12月
父が入院した、そして何故かガチ病みしたのだった、この頃「オーバードーズ(OD)」をするようになった。
初めてのODは、不安こそあったがリスカよりコスパは悪いものの、バレ難かったし何より嫌なことを多幸感で忘れられるのではまってしまった。
3年生
リスカは減った。ODは増えた。
7月
何故か小学校のいじめっ子が、家凸してきてカツアゲされた。
要求された額は2万円。「1週間後にまた来る、用意してくれたら金輪際関わらない。用意しなかったら…わかってるよな?」と言われ、何されるかわからない恐怖に侵され泣く泣く承諾。が、2万円なんて用意できるはずもなく僕は最終手段。円光に手を染めた。痛いだけの苦痛を乗り越えなんとか2万5千円を手に入れ、1週間後いじめっ子に2万円を渡した。
残りの5千円でブロンとウットを買った。
そのウットをODし、寝ていたら仕事から帰ってきた母に起こされる。異常な眠気、怠さにより呂律が回らず、それに加え躁状態。
ただ事ではないと思った母が僕の部屋を捜索。そしたら出てくる出てくるからの体量のブロンの空き瓶とウットの空箱、泣き崩れる父と母(マジでごめん)初めて父の泣き顔を見た気がした。そこから車でブーンって病院まで行き、母と父が先生へ事情を説明。
診察室でなんで飲んじゃったの?って聞かれて、採血されて薬剤師さんに活性炭持ってきてもらって飲んで、生食の点滴ぶっ刺されて、トイレに車椅子押されて行って、けっきょく1日入院ってなって、お父さん帰ったの1時でした。
すごく後悔して反省して、もうしないって決めた。
本当にごめんなさい。
そしてメンクリを変え、ちゃんと病名がわかり、安心したのも束の間…
12月
寒さとかにやられて精神的に病んだ頃。OD再発(?)
如何しようもないバカでしたw
そして、ブログを始め、OD実況をし、さらには新しい薬を開拓すると言うねw
おバカ極まりないw反省しないよね…してもその時だけ…
で今に至ると言う感じです。
うん。くっっっっっっっそ長いw
気づけば5000字近いw
まあこんな感じの人生を歩んできました。
辛いこともいっぱいあったけど、これがなければ今の雨月は存在しません。
ここに書き込むこともなかったでしょう。
皆さんも辛いことがあると思いますが、そう言う時は休みましょうね。
次は記憶と日記を頼りにウットかリスペリドンのOD実況をあげようかな!
では皆さん、またね👋
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